遺言書は、亡くなった方の最後の意思を表す重要な法的文書です。しかし、適切に作成されなければ法的効力を失い、無効となってしまう可能性があります。近年、高齢化社会の進展に伴い、遺言書をめぐるトラブルが増加しており、特に認知症患者が作成した遺言書の有効性を争う事案が目立っています。遺言書が無効となる原因は多岐にわたり、方式面での不備から遺言能力の欠如、詐欺・強迫による作成まで様々なケースが存在します。本記事では、遺言書が無効となる具体的なケースを詳しく解説し、無効を避けるための対策についてもご紹介します。適切な知識を身につけることで、確実に有効な遺言書を作成し、ご自身の意思を確実に実現させましょう。

遺言書が無効になる最も多い原因は何ですか?
遺言書が無効になる最も多い原因は、方式上の不備です。特に自筆証書遺言において、法定の方式を満たしていないケースが圧倒的に多くなっています。
全文の自筆要件の違反が最も代表的な無効原因です。自筆証書遺言では、遺言の全文を遺言者が自分の手で書く必要があります。他人が代筆した部分がある場合や、パソコンやワープロで作成された部分がある場合は、原則として無効となります。ただし、2019年の法改正により、財産目録に限ってはパソコンでの作成が認められるようになりました。
日付の記載不備も非常に多い無効要因です。遺言書には作成日を明確に記載する必要があり、「令和5年3月吉日」や「令和5年春」のように、具体的な日付が特定できない記載では無効となります。また、日付の記載がまったくない場合も当然無効です。実際の裁判例では、「平成30年秋」という記載では具体的な日付が特定できないとして無効とされた事例があります。
署名と押印の不備による無効もよく見られます。遺言者の署名がない場合や、署名の後に印鑑が押されていない場合、その遺言書は無効になります。印鑑については、実印である必要はありませんが、何らかの印鑑による押印が必須です。
修正方法の不適切な処理による無効もあります。遺言書の内容を修正する場合は、民法で定められた特別な方式に従わなければなりません。修正箇所に二重線を引き、その箇所に印鑑を押し、修正内容を欄外に記載して署名する必要があります。この方式に従わない修正は、修正部分が無効となる可能性があります。
さらに、2019年の民法改正により財産目録についてはパソコンでの作成が可能になりましたが、この場合は財産目録の全てのページに遺言者の署名と押印が必要です。1ページでも署名押印が抜けていると、その部分は無効となる可能性があります。
これらの方式違反による無効は、遺言者の真意とは関係なく、純粋に技術的な問題で起こることが多いため、特に注意が必要です。専門家の助言を得ながら作成することで、こうした無効リスクを大幅に減らすことができます。
認知症の人が作成した遺言書は必ず無効になりますか?
認知症の診断があるからといって、必ずしも遺言書が無効になるわけではありません。重要なのは、遺言作成時点での「遺言能力」の有無です。
遺言能力とは、遺言の内容を理解し、その法的効果を認識できる能力のことです。この能力は、遺言の複雑さに応じて相対的に判断されます。つまり、単純な内容の遺言であれば比較的軽度の認知機能でも有効とされる可能性がある一方、複雑な内容の遺言には高度な判断能力が要求されます。
裁判所が遺言能力を判断する際の重要な指標の一つが、長谷川式簡易知能評価スケール(HDS-R)です。この検査は30点満点で行われ、一般的に20点以下で認知症の疑い、10点以下で中等度から重度の認知症とされます。ただし、HDS-Rの点数だけで遺言能力の有無が決まるわけではありません。裁判所は、HDS-Rの点数を一つの参考資料として、総合的に判断を行います。
具体的な傾向として、HDS-R13点以下の場合に遺言能力が否定される傾向が見られますが、これは絶対的な基準ではありません。実際の裁判例では、HDS-R12点という重度の認知症状態にあった遺言者の公正証書遺言が無効とされたケースや、HDS-R11点の遺言者が作成した遺言が無効とされたケースがあります。
認知症の種類によっても影響は異なります。アルツハイマー型認知症は記憶障害から始まり徐々に判断力が低下しますが、血管性認知症は症状の進行が段階的で良い日と悪い日の差が大きく、レビー小体型認知症は清明な時期と混乱する時期が交互に現れるという特徴があります。清明な時期に作成された遺言は有効とされる可能性があります。
成年後見人が選任されている場合でも、被後見人が遺言を作成することは可能です。ただし、医師2人以上の立会いがあり、その医師が被後見人に遺言能力があると認めた場合に限られます。この場合、立会った医師は遺言書にその旨を記載し、署名・押印する必要があります。
重要なのは、認知症の診断があっても、遺言作成時に遺言の内容を理解し、その効果を認識できる能力があれば、遺言は有効となる可能性があるということです。そのため、医師による診断書の取得や、遺言作成過程の記録保存などの対策を講じることが重要となります。
公正証書遺言でも無効になることがありますか?
公正証書遺言は、公証人が関与して作成されるため、自筆証書遺言に比べて無効となることは稀とされていますが、決して無効にならないわけではありません。
遺言能力の欠如による無効が最も多いケースです。公証人は法律の専門家ですが、医学的な専門知識を持っているわけではありません。そのため、遺言者が巧妙に認知症の症状を隠したり、症状が軽微に見えたりした場合、遺言能力の欠如を見抜けない可能性があります。また、公証人との面談時間は通常1時間程度と短時間であり、その限られた時間の中で遺言者の真の精神状態を把握することは困難な場合があります。
実際の裁判例では、令和2年1月28日東京地方裁判所判決で、遺言作成時にHDS-R12点という重度の認知症状態にあった遺言者の公正証書遺言が無効とされました。この事案では、遺言者が日常的な金銭管理もできない状態であり、遺言の内容や効果を理解する能力がなかったと認定されました。
証人の不適格による無効も重要な無効要因です。公正証書遺言の作成には、2名以上の証人の立会いが必要ですが、以下の人は証人になることができません。未成年者、推定相続人(将来相続人になる可能性のある人)や受遺者(遺言によって財産を受け取る人)、およびこれらの人の配偶者や直系血族、さらに公証人の配偶者、4親等内の親族、書記、雇人も証人不適格者です。実際の裁判例では、推定相続人の配偶者が証人として立ち会った公正証書遺言が無効とされたケースがあります。
口授の欠如による無効もあります。公正証書遺言では、遺言者が公証人に遺言の趣旨を口授(口頭で述べること)する必要があります。遺言者が遺言内容を理解し、自分の意思をもって返事をしたかどうかがポイントとなります。公証人が事前に遺言内容が遺言者の意思に合致しているか直接確認していない場合や、遺言者が実際には遺言内容を理解していなかった場合などで無効となることがあります。
詐欺・強迫による無効もあります。遺言者が騙されたり、脅迫されたりして作成した遺言は、真意に基づく遺言とは認められません。公正証書遺言であっても、このような状況で作成された場合は無効となります。
公正証書遺言は確かに自筆証書遺言よりも無効になりにくい形式ですが、完全に無効リスクがないわけではありません。特に遺言能力の問題は、公証人の関与があっても完全には防げない場合があります。そのため、遺言作成時には医師による診断書の取得や、適格な証人の選定など、十分な準備を行うことが重要です。
遺言書の無効を争う場合、どのような手続きが必要ですか?
遺言書の有効性に疑問がある場合、法的に争うための手続きが定められています。調停前置主義が適用されるため、まず家庭裁判所での調停手続きから始める必要があります。
家庭裁判所での調停手続きでは、訴訟を提起する前に、必ず調停手続きを経なければなりません。調停の申立先は、原則として他の相続人のうちひとりの住所地を管轄する家庭裁判所です。複数の相続人がいる場合は、そのうち誰か一人の住所地を基準として管轄裁判所が決まります。
調停委員会は、裁判官1人と2人の調停委員の計3人で構成されます。調停委員には、弁護士や大学教授、公認会計士、不動産鑑定士などの専門家が任命されることが多く、相続問題に精通した人材が選ばれます。調停では、相続人間での話し合いを通じて、遺言の有効性について合意を形成することを目指します。
ただし、家庭裁判所は遺言書が有効か無効かについては判断しません。遺言書の有効性が争われている場合、調停では解決できず、調停不成立で終わることが一般的です。
訴訟手続きへの移行では、家事調停において遺言の効力に関する争いが解決できなかった場合、遺言無効確認請求訴訟を提起することになります。重要なのは、訴訟を提起する裁判所は家庭裁判所ではなく地方裁判所となることです。遺言無効確認訴訟の提起先は、他の相続人のうちひとりの住所地、または相続開始時における被相続人の住所地を管轄する裁判所です。
立証責任と証拠収集では、遺言の無効を主張する原告側が立証責任を負います。立証のための重要な証拠として、医療記録(診療録、認知機能検査の結果、投薬記録、医師の意見書など)、介護記録(介護サービス利用時の記録、ケアマネージャーの記録など)、家族や関係者の証言、筆跡鑑定(自筆証書遺言の場合)、録音・録画データなどがあります。
訴訟の流れは、訴状の提出、被告の答弁書提出、争点整理、証人尋問や当事者尋問、専門家による鑑定、判決の言い渡しという順序で進行します。
費用と期間については、裁判所に納める印紙代は訴額に応じて決まり、一般的には数万円から十数万円程度です。弁護士費用は着手金と報酬金を合わせて数十万円から数百万円程度、鑑定費用が必要な場合は別途数十万円程度かかります。訴訟期間は一般的に1年から3年程度を要することが多いです。
判決後の手続きでは、遺言無効の判決が確定した場合、遺産分割協議の実施、相続登記の修正、税務上の修正申告などが必要となります。
調停による解決には、費用が安い、期間が短縮される可能性がある、柔軟な解決が可能、プライバシーが保護されるなどのメリットがあります。手続きは複雑で専門的な知識が必要なため、相続問題に詳しい弁護士に相談することが重要です。
遺言書が無効になることを防ぐためにはどうすればよいですか?
遺言書の無効を防ぐためには、複数の対策を組み合わせて実施することが重要です。専門家への相談が最も確実な方法です。
専門家への相談では、弁護士や司法書士などの専門家に相談し、適切な方式で遺言書を作成することが大切です。専門家は、事案の見通しを提供し、最適な解決策を提案することができます。また、必要な証拠の収集方法についてもアドバイスを提供します。
早期の遺言作成が最も重要な対策です。認知症の診断を受ける前、または軽度認知障害(MCI)の段階で遺言を作成することで、無効リスクを大幅に減らすことができます。高齢になってからではなく、判断能力に疑問を持たれる可能性が低い時期に作成することをお勧めします。
医師の診断書の取得も効果的です。遺言作成時に精神科医や神経内科医による診断書を取得し、遺言能力があることを医学的に証明しておくことが重要です。遺言能力に疑問を持たれる可能性がある場合は、遺言作成時に医師による診断書を取得しておくことで、後の紛争を防ぐことができます。
公正証書遺言の活用も検討すべきです。自筆証書遺言に比べて無効になりにくいため、確実性を求める場合は公正証書遺言を選択することを検討してください。ただし、証人の選定には注意が必要で、適格な証人を選び、遺言者の意思を明確に公証人に伝えることが重要です。
遺言作成過程の記録保存も有効です。公正証書遺言の場合、公証人との面談の様子を録画・録音することで、後の紛争に備えることができます(ただし、公証人の同意が必要です)。自筆証書遺言の場合も、作成過程を撮影しておくことで、後日の立証に役立つ可能性があります。
定期的な見直しも重要です。遺言書は一度作成すれば終わりではありません。状況の変化に応じて内容を見直し、必要に応じて新しい遺言書を作成することが重要です。認知機能の変化に応じて、定期的に遺言内容を見直し、必要に応じて更新することが大切です。
遺言内容の簡素化を心がけるべきです。複雑な内容ではなく、理解しやすい単純な内容とすることで、遺言能力の要求水準を下げることができます。
家族への事前説明も大切です。遺言の内容を事前に家族に説明し、理解を得ておくことで、後の紛争を防ぐことができます。
複数の専門家による確認も推奨されます。医師だけでなく、弁護士、司法書士などの法律専門家にも相談し、遺言内容の合理性を確認してもらうことが重要です。
2020年7月からは法務局での自筆証書遺言保管制度が開始されました。この制度を利用することで、方式面での無効リスクを軽減することができます。確実に有効な遺言書を作成するためには、これらの対策を総合的に実施することが重要です。
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